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とは何か!

死とは何か!

そしてこの世界とは、本当は何なのか!

 

今回はラットレースから抜け出す方法(タブーの書)アランワッツ著。アメリカでは1966年発売以来、今もなお売れ続ける古典の中の名著です。タイトルからは、あまり想像がつきませんがゴリゴリの哲学書です。哲学者がスピリチュアルについて語る感じです。超むずいですが、読み終えるとワンネスが腑に落ちはじめ、世界の見方がガラッと変わります。自分は何者で、どこから来て、ここで何をし、どこに行くのかが書かれています。


あなたは勉強で、るものは3つあります☝

感謝ができるようになる

孤独感がなくなる

世界の真実がわかる

この3つです。

 

目次として8つのポイント

1つ目 注意とは狭められた知覚

2つ目 すべてが連携をしている

3つ目 勝者は敗者が必要

4つ目 集団は集団を排除しないと存在できない

5つ目 それぞれ、別個だと考えると矛盾をする

6つ目 すべてが0と1

7つ目 「個」としてのあなたは存在しない

8つ目 天使は悪魔が成立をさせる

 

 それでは、さっそく

1つ目のポイント 注意とは狭められた知覚

注意とは狭められた知覚であるということ。まず、猫を見たことがない彼がいるとします。彼は塀の隙間を見ていました。隙間の向こうを猫が通り過ぎます。彼、はまず頭を、それから胴体を、最後に尻尾を見ます。猫がUターンをして、その隙間をもう一度通ると、また同じ順番で頭、胴体、しっぽを見ます。これを何回も繰り返していると、猫を見ていた彼は、頭という出来事は、尻尾という出来事の原因であると判断をするのです。この馬鹿げた判断は、頭と尻尾は一体で、それらは一匹の猫なのだという全体像を彼が理解をしていないから生まれます。もちろんその猫は、頭として生まれ、後に尻尾が生まれたわけではなく、一体として生まれています。

 

この観察者の混乱は、彼が細い隙間を通してみているため、猫全体を一度に見ることができなかったから生じたものです。塀の隙間から見るというのは、意識的注意によって、僕たちが世界を見る味方と非常によく似ているのです。何かに注意をしている時、僕たちはそれ以外のすべての者を無視しています。注意というのは狭められた知覚なのです。言い換えると、狭い枠の中でしか思考できなくなっているのです。これが世界をそれぞれ別個のものとして分割をして、ひとかけらずつに見てしまうことにつながっていくのです。暗い部屋の中を、光の幅が狭い懐中電灯で見るようなものです。

 

世界をひとカケラずつ、観察していくとついつい世界とはカケラの集大成である!と信じ込んでしまうのです。そして、それらのカケラを別個のものとして認識するようになります。これにより物事がどう関連し、互いに因果関係にあるのかを考えてしまうのです。しかし、本当は個別の事象の因果関係ではなく、すべては一体になるのです。

 

僕たちが世界を個別のカケラとして、物、事象、原因、結果などと別々のものを見ているのは、我々の見方に過ぎないということです。人間が、物事に名前というラベルを貼って、それぞれを分類しているだけです。勝手に分類していることに気付かないので、世界が頭しっぽのネコのように言った一体になっているものであるとは、考えることができないのです。本当はすべてがバラバラに存在するのではなく、すべては一体になるっているのです。

 

 つづいて、

ポイント2 すべてが連携をしている

この一体性や全体性というものを意識していないから、エゴが生じています。エゴが生じると、世界中にいる誰もが変装した唯一の「自己」であるということを認識ができなくなるのです。つまり、「他者はすべて自分自身でもある。」これがわからなくなるのです。「自分 = 全て」で「自分 = 神」ということがエゴによって分からなくなります。すべては一つというのが分かると、自分自身が神だということもわかってきます。世界の全てのものが変装して現れた唯一の自己!というのが本当なのです。

 

よって、他者もすべて自分自身になるのです。これは、人間同士だけ言える事ではありません。本当は光と闇、音と沈黙、固体と空間、オンとオフ、内と外、出現と消滅、原因と結果というような対立物などもすべてが、一つのものでそれぞれが、同一のもので一方の端なのです。すべてのものが片方だけは存在ができず、本当は合わせて一つのものなんです。このことから「勝者と敗者」といった対立関係の考え方も変わります。

 

 そこで次のポイントです

3つ目のポイント 勝者は敗者が必要である

勝者と敗者についても同じことが言えるのです。勝者と敗者とは、本当は一つのものなので片方なくしては、もう片方は存在ができません。例えば、欲望や恐怖を持たずに生きようとすればするほど、自分の行動が、欲望や恐怖に基づくものであることが分かります。ある時点で、欲深い人にならないようにすること自体が欲だと気づくのです。聖者であろうとすることもまわりの人と比べて優れた人になりたい!という自分のプライドを満たしたいからになるのです。

 

私は、あなた以上に悟りを開いている。

その宗教の教えはまちがっている、私の方が正しい

私のほうが、あなたより謙虚だ

私のほうが、お金なんてものに対して執着がない

 

これらを延々と行っていくゲームに過ぎないのです。このレースに巻き込まれない方法などあるのでしょうか。少し考えればわかりますが、レースに巻き込まれないということに関してもレースが始まってしまうのです。僕の方がレースに参加をしていない僕のほうが世の中は勝ち負けのゲームで成り立っているということをよく理解をしている。このようにエゴは色々と姿を変えながら、どこまでも他者と比べて、自分を再確認しているのです。

 

こうしたゲームを続けていると、下にいるあなたなしでは、私を上にいるものとして規定をすることは不可能だということに気づいていくのです。自分が上にいるのはた探したであることにかかっているのです。ダサいファッションのよそ者集団が存在しないと、自分がイケてるグループ(内輪集団)に属していることなどが認識できないのです。よそ者たちのひどいふるまいについて、食卓の雑談を楽しむことがなければ、その内輪集団がその集団的エゴを維持することはできません。

 

僕たちは誰か蹴落とさないと限り、「これが自分だ」というものを規定ができないのです。特別で孤立した人物として、何かに達すること、誰かになることが人生の主な楽しみである限り、あらゆる勝者には敗者が必要であり、あらゆる聖者には罪人が必要であり、あらゆる賢者には、愚者が必要となるのです。つまり、周りの人と違う優れた人物になろうとした時点で、「勝者と敗者」を作ろうとしていることになります。特別な人物になるということは必ず誰かを蹴落としているのです。言い換えると世界中の人に競争をふっかけているということになります。

 

これは永遠の終わることのないラットレースなります!

 

とはいえ、すべての人が他者という視点から自分自身の規定をしています。つまり、たとえどんな価値基準で、自分より上とか下とか言うように見ても、他者によってのみ自分を知ることができるのです。もし他者の方が上であれば、悲劇のヒロインとしての刺激を楽しみます。他者下であれば、プライドという刺激が楽しめるのです。

 

自分がどうあるかは、他者がどうあるかにかかっているのです。つまり別個のものとして考えるのではなく、一体のものとして考えるのが適切になるのです。あなたがあなたであるがゆえに、私が私であるのなら、私は孤立した私ではなく、あなたは孤立したあなたではないのです。

 

僕たち全員が私あなたの間のハイフンのような共通の何かで結ばれた一体のものになるのです。私とあなたは、別個ではなく一体のものです。他のものとして知覚されるすべてのものと自分自身との間にあるハイフン、これだがセットで一つのものです。別々に考えることはナンセンスになります。他のものがあって、はじめて自分自身を規定ができるんです。個人だけでなく、集団でも同じことが言えます

 

 そこで、次のポイント

4つ目のポイント 集団は集団を排除しないと存在ができない

他者よってのみ自分を知ることができるのは、否定できない事実になります。しかし問題としては、自分は他のものすべてから締め出されているという感覚です。どうすれば、自分はひとりぼっちの「ちっぽけな自己」という感覚を乗り越えられるのか、どうすれば、全ての対象との避けられない闘争に投げ込まれた一個体という感覚を乗り越えられるのか、簡単に言うと、どうすればエゴを乗り越えることができるのか!ということです。

 

瞑想セミナーや、宗教、スピリチュアルセミナーなどでも、エゴを乗り越えるための実践がなされています。しかし、やっかいなのはそれに真剣になった途端、何か特別な内輪集団の中に属してしまう点です。そうした集団は、しばしは極めて鮮明された狡猾され、よそ者集団を排除することによって、自らを規定するのです。簡単に言うと、分断を強調して排他的になってしまうのです。

 

こういった流れで、あらゆる宗教や宗派は矛盾するハメになります。非宗教的あるいは、普遍的包括的宗教などと掲げたところで、私たちはあなたたちより排他的ではない!と言うゲームを行っているに過ぎないのです。どんな集団を作ろうがやっていることは大して変わらないということです。

 

実際に兄弟愛や、人類愛という名のもとに設立される宗教や非宗教はことごとく分裂的で闘争好きなものです。実際の政治においても同じです。真に無階級で民主主義的な社会の実現を目指す政策以上に、闘争好きなものはありません。今の社会だと、あたかも存在することは争うこと、あるいは他とは異なっていること、他者との違いをはっきりさせることであるかのようです。そうだとすればケンカをふっかけない人はアイデンティティを持たないことになります。利己的でない人には、自己がないことになります。

 

この他者との違いをはっきりさせるという考え方によって、共同体の性質も決まります。このような性質の共同体だと、仮想敵国を作る必要があるのです。外敵に対する共通の大義ほど、共同体を一つにまとめるものはなく、その時は社会的統合にとって不可欠な支えとなるのです。社会が大きくなるにつれてその社会を存続させるためにはより、大きな敵が必要になるのです。

 

このように存在することは、他者との違いをはっきりさせること!という考え方だと、自分を支えるためには、敵が必要であることにますます気付いていくのです。同様に、私は誰であり、何者なのかという問いを掘り下げていけばいくほど、他のものを離れてしまっては、自分は全く何者でもないという認識が強くなるのです。

 

このような世界では、心は穏やかではありません。これは何がいけないのか!

 

そこで次のポイントです。

5つ目のポイント それぞれ別個だと考えると矛盾をする

このように自分が優れた人物になろうとすればするほど、自分が達した高さというものが他人の低さや失敗との対比においてのみ明らかになることがわかってくるのです。これはつまり、ダブルバインドに陥っているのです。

 

ダブルバインドとは、2つの矛盾した命令がなされている状態のことです。ダブルバインドの状態になってしまうなら、そもそもの前提が間違っている可能性があります。実はそれぞれ別個のものとして、「私」とか「あなた」で考えることがそもそも間違いなのです。本当はエゴという感覚がナンセンスであり、独立したエゴというのは単なる作り事になるのです。

 

「私」というエゴの感覚は嘘になります。私という感覚は自分が経験する全宇宙と同一視されるべきなのです。この孤立したエゴというのは、作りことだということを確信出来たら、自分自身が生の全プロセス全パターンであることを実感するようになります。簡単に言うとすべては一つということです。つまり、ワンネスのことです。

 

それぞれの有機体というのは、自らを経験する宇宙になるのです。これまでの勉強で人間関係や社会的な背景から、ワンネスは理解ができましたと思います。次は生物学などのミクロの視点から、ワンネスを考察していきます。

 

 続いて

6つ目のポイント すべてが0と1

僕たちの感覚器官は、波の振動をキャッチして、01の信号に変換をしています。目は光の波に触れて、耳は音波に触れることで変換をしています。これらの感覚器官を構成する神経細胞はただ on off の状態に波を変換しているだけです。神経細胞は yes no の合図を送るだけなのです。つまり01の信号を送っているだけなのです。

 

よって、僕たちの神経組織と、二進法からなるコンピューターは、非常によく似ているのです。似ている理由は、物質的な世界は基本的に全てが振動であるからです。つまり世界も01でできているようなイメージです。波間のない波頭や、感覚や空間を持たない物質というものはありえません。言い換えると、半分の波とか、周りに意味空間を持たない物質は存在しないのです。

 

オフのないオンはないし、下のない上もないのです。僕たちには、途切れのない音のように感じられても本当はそうではありません。すべての音は並なので、実際にはオンとオフがあるのです。オンとオフの交代があまりに早いので、耳が意識に載せないだけです。光に関しても同じです。光もオンとオフの波、つまり光と闇の連続なのです。

 

空間も同じです。僕たちの意識は、空間の隙間を無視してしまいますが、宇宙というのは、固体空間の振動になるのです。つまり、固体と空間が一つのものとして共存をしています。空間というのは物体間の関係あり、それなしにはエネルギーも運動も存在できません。ここからあなたという存在もオンの状態だけを取り出して考えてはいけないことがわかります。

 

 

そこで次のポイントになります。

7つ目のポイント 個としてのあなたは存在しない

僕たちが死とか、空っぽの空間とか、無として理解をするものは、波頭と波頭の間のくぼみに過ぎないのです。ここからわかるのは、時間も空間も一つのものということです。よって獲得すべき何かが未来にあるはずだ!とか、それを獲得するまでやり続ける必要があるとかは、すべて幻想の一部なのです。「現在」を置いて、他に時間というものはなく「一切のものすべて」以外には、誰もいないのと同じように、そこには獲得されるべきものは何もありません。

 

この「すべては一つ」を理解すると、敵も味方も含めて「皆さんのおかげ」という気持ちが生まれます。ワンネスが分かると、敵にも、よそ者集団にも、そして他のあらゆる生命にも自分が依存しているという率直な認識が生まれます。人は、生きている限り他の命を犠牲にして食べなければなりません。必ず他のものに迷惑をかけなければ生きていけないし、他なもののおかげでしか存在はできません。

 

これを本当に理解すると、敵をとことんまでやっつけよう!という気がなくなります。今後も現実の生活の争いごとや、競争ゲームに巻き込まれることはあるかもしれませんが、他者が完全に間違っている!とか、奴らを一掃できる、一掃されるべきだ!という幻想に縛られることがなくなります。このことは、極端な追い込みをするような争いを抑制し、進んで妥協することができる!というかけがえのない能力をあなたに与えます。

 

なぜ、敵への理解が大事なのか!理由は、本当に危険な人物というのは、自分が盗人であることを自覚をしていない人物だからです。分かりやすくいうと整理感の強い、こっちが正義であっちは悪だと、決めつけをして攻撃する輩が最も危険な人物なんです。世の中のすべての戦争もこのようなタイプの人が起こしている確率が高いのです。世の中の悪を根絶させなければならない!と考えるタイプは一番危険です。

 

誰かが少しズレた発言をした時に、徹底的にコメントで叩く行為に走る人なども、この傾向があります。このようなワンネスの世界観で生きていくには、マジメ人間になりすぎず、ゲーム感覚で生きているくらいがちょうどいいと著者は教えてくれます。

 

 

そこで次のポイントになります。

8つ目のポイント 天使は悪魔が成立をさせている

いい人の役割を演じて、盲目的になった人は自分の地位を支えてくれているのは悪い人のおかげだということを忘れてしまいます。本当のところは、敵や競争相手を愛すべき存在なのです。彼らなしには、僕たちは何処にも存在ができません。天使と悪魔の勢力は、相互に依存をしており、天使が勝ちつつあるが勝ちはせず、悪魔が負けつつあるが決して負けはしないという限りにおいて、ゲームはゲームとして成立をするのです。

 

人権、国際平和、核兵器の抑止などに関わっている人が、このことを理解することこそ最も重要であります。もちろんこれらは、支持されるべきとても立派な主張ですが、対立するものへのリスペクトを欠いてしまったり、それらを完全な悪とみなしてはなりません。実際に熱心な平和主義者や熱心な反帝国主義者ほど、好戦的で争い好きな人物はおりません。これは視野が狭くなり、敵のおかげさま!という気持ちが完全に欠如しているからです。

 

これを防ぐには、自分の存在を敵や競争相手に依存をしている!ということをただ理解すればいいわけです。これを理解するとユーモアも手に入るのです。ユーモアとは人生の矛盾をみんな共通の弱点として、寛大な態度で楽しむ気持ちです。ユーモアと独善性は相容れないものなので、ユーモアを持つと自分と反対の立場の人間を攻撃しよう!という気にはなりません。

 

言い換えると「ユーモアを持つとは、敵と同様に自分の中にもダメな部分があることを自覚している」ということです。敵にも自分にもダメな部分があることをユーモアをもって大目に見てあげることが大事です。

 

ユーモアを持つことで、いいバランスを保つことができます。つまり、愛と利己性、理性と情熱、精神性と官能性、神秘主義と物質主義の独特なバランスがとれるようになります。これらはのどちらか一方に偏ることで人間性を失いバランスを失ってしまいます。極端に走ると危険になるのです。よって僕たちは、善と悪とが互いに総合依存していることを肝に銘じるのが大切です。くれぐれも相手を抹殺しようとしてはいけません。

 

これを忘れると、いつのまにか世界に迷惑をかけることになるし自分も不幸になります。天使になろうとすればするほど、バランスを保つために悪魔の軍団を呼び起こすことになります。このように世界はバランスが大事なので、ゲーム感覚ぐらいで考えた方がちょうどいいと著者は言います。言い換えると、仕事というよりは遊び感覚で生きることが大切です。生きるというゲームに参加する当事者は、その天敵や愛すべき敵対者なしには、ゲームは成立しないのだ!ということを理解して、プレーしなければならないのです。

 

「汝の敵を愛せよ」というのは、彼らを敵として愛するということです。ドラゴンクエストのロールプレイングゲームでは、スライムは愛されキャラになっています。スライムが出てこないドラゴンクエストは、ゲームとして成立しません。この世界というゲームではすべてが必要な存在で、それらを一つでも書いてしまっては、ゲームが成立しないのです。繰り返しになりますが、「すべてでひとつ」なのです。ついついゲームを役柄に没頭をしすぎて、そもそもこの世界は、一人の「私」が演じているものだということをすっかり忘れてしまうのです。実際には外のだれかなどいないのです。誰かとわざわざつながろうとしなくても、僕たちはもともとすべてと繋がっているのです。

 

この事実を踏まえた上で、あなたはこれからどんな役はでを演じていくでしょうか…

 

 

それではまとめです。

1つ目のポイント 注意とは狭められた知覚

細い隙間を通して見ているから全体性を認識できない

世界をそれぞれ別個のものとして見てしまいがち

本当は個別の事象の因果関係ではなく、すべては一体

人間が勝手に物事にラベルを貼って、それぞれ分割をしている

 

2つ目のポイント すべてが連携をしている

一体性を認識してないからエゴが生じる

本当は「自分 = 全て」で「自分 = 神」

すべてが変装して現れた唯一の「自己」

他者もすべて自分自身

すべてのものが片方だけでは、存在ができず本当は一つのもの

 

3つ目のポイント 勝者は敗者が必要

敗者のおかげで、勝者は存在ができる

悟りを開くことも、聖者になることも敗者が必要

自分が上にいるのは、他者が下であることにかかっている

特別な人物になろうとする限り、誰かを敗者にしなければならない

聖者には罪人が必要で、賢者には愚者が必要

優れた個人になろうとすることは、世界中の人に競争をふっかけていうのと同じ

すべての人が他者という視点から、自分自身を規定をしている

エゴがある限り、他者と比べて自分を提示する

エゴがある限り、ラットレースが永遠に続く

他のものがあって、はじめて自分自身を指定できるから一体のものとして考えるのが正解

 

4つ目のポイント 集団は集団を排除しないと存在ができない

あるグループに入った瞬間、よそ者グループが生まれる

いい人そうなグループも、結局は他者を排除しないと成立をしない

他とは異なっていることを目指し社会はケンカが絶えない

 

5つ目のポイント それぞれ別個だと考えると矛盾をする

「私」とか「あなた」という別個で考えとダブルバインドに陥る

それぞれの有機体は、自らを経験する宇宙である

 

6つ目のポイント すべてが0と1

感覚器官は波をキャッチして01の信号に変換をしている

神経組織と二進法のコンピューターは似ている

世界はすべてが振動なので、01みたいなもの

音は波なので、オンとオフがある

光もオンとオフ波 つまり光と闇の連続

宇宙も個体と空間の振動である

 

7つ目のポイント 個とのあなたは存在しないしとか

死とか空間とか無というものは波と波の間のくぼみに過ぎない

本当は時間も空間もたった一つしかない

「すべてはひとつ」を理解すると、敵も味方も含めて「皆さんのおかげ」と思える

人は、他のものに迷惑をかけなければ生きられない

正義感の強いこっちが正義で、あっちが悪だと決めつけるタイプが一番危険

世の中の悪を根絶させなければならない!と考えるタイプも一番危険

敵のおかげという、世界への感謝の気持ちがないからこうなる

 

8つ目のポイント 天使は悪魔が成立をさせる

本当は、敵や競争相手は愛すべき存在

自分の存在は、敵や競争相手に依存をしている

敵にも自分にもダメな部分があること、ユーモアをもって大目に見る

ユーモアを持つと、人としてのバランスを保てる

仕事というよりは、遊び感覚で生きることが大切

人生は、ゲーム感覚くらいがちょうどいい

この世界というゲームでは、すべてが必要な存在でそれらを欠くとゲームは成立しない

世界はすべてで一つ

誰かとつながろうとしなくても元々すべてとつながっている

 

最後に「すべては一つ」これに尽きます。この世界は円のようなもので始まりも終わりもありません。あるのはたった一つだけで他には何もないんです。だから退屈しのぎでいろいろな人や様々なものを演じているというゲームを繰り返し経験しているだけなのです。私は、気に入らないアイツで、大好きなあの人だ!という敵の役を演じてくれる自分自身に感謝をしなければならない。そものも自分の何者かであるかを決められるのは、他の誰かのおかげであること。

善と悪や、精神性と物質主義などの二極間の絶妙なバランス感覚で生きること、これが人生というゲームの上手な攻略法でしょう!

 

今回は以上です。

ありがとうございました。

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